痛みを知ることは、人の心の痛みも知ることに繋がるのです。

こんにちは昨日鳥の糞が降ってきたもりぞうです。

無痛というドラマご覧になっていましたでしょうか。

私は一度もみたこともありませんが

無痛という題名にはなんとなく惹きつけられました。

もしひとが無痛だとしたらいったいどうなのでしょうか。

痛みも感じないし幸せかというとそうでもありません。

先天性無痛症
これは先天性無痛病という、れっきとした病気とされています。

遺伝子の変異であるといわれていますが

根本的な治療法などは確立されていないのが現状です。

名前の通り患者は身体のどこかが傷ついても痛みを感じません。

ですから骨折や脱臼などをしていても目で確認しない限り気づくこともできません。

痛みに対する防御反応が欠如しているため繰り返してしまいます。

「痛いから気をつけよう。」という認知が育たないので知的発達も遅れることが多いとされています。

この痛みの認知と知的な発育はどのように関連するのでしょうか。

痛みの認知と知的発達
脳に存在するノシセプチン(ペプチドの一種)という物質は、

痛みを感じたときに増えることから、

これまでは痛みを増幅させる作用があると考えられてきました。

しかし、最近の研究からノシセプチンは記憶や学習にも関与していることが明らかになりました。

つまり、ある程度の痛みを感じてこそ、そこから学習し、

二度と同じことを繰り返さないよう記憶するのです。

そのような脳の学習が行われないため知的発達に影響があると考えられます。

また、自分の痛みを感じることは他人の痛みを感じることにもつながります。

肉体的痛みと精神的な痛みの関連
フランスの精神医学者のワロンは乳幼児の泣くことの中に、

人間が困難を克服していく過程の原型をみていたそうです。

泣くことは慰められることを求める行為であり、

人は情緒的な交流のもとで初めて痛みを克服できるというのです。

特に心理的な痛みに対してです。

確かに傷ついたときは家族や仲間の支援や援助や共感によって、

心の痛みはずいぶん和らぎます。

今では昔ほど兄弟も少なく取っ組み合いのけんかや

学校でも教師から殴られるなんてことはあまりありません。

もちろん喧嘩や体罰を肯定しているわけではなく

肉体的痛みを感じるシチュエーションが少なくなっています。

子供の頃に痛みをあまり経験せずに過ごしてしまうと、

危害が及ぶ刺激から逃れる反応が遅く、かつ不十分になります。

他人に危害を与えてしまったときも、相手がどのくらい痛いかが理解できなくなります。

つまり生身の友達とケンカしたときどのくらいの強さで殴ったらいいのか、

どの程度まで許されるのか判断基準が持てないのです。

痛みと共感
イギリスの心理学者シンガーの研究では他者の痛みに共感するとき、

痛みを感じている人だけでなく感じていない人にも

同様な脳の神経活動が起きていることが示されました。

痛みは知覚的な側面と情緒的な側面があり、

人はその情緒的な側面だけで他者にも追体験することができます。

だから子供は友達が痛みを感じているところをみて、

同じように不安になったり悲しくなって泣き出すのかもしれません。

人の身体の痛みには「手当て」、

例えば撫でたり、さすることでそれを鎮めるように

心の痛みにも身体に「触れ」「抱きしめる」スキンシップが有効なのも

痛みの複雑な側面であり一つの突破口になるかもしれません。

痛みは一つの結果でありこころやからだかからの何らかのメッセージ

であることに間違いなさそうです。

痛みの原因を探ることの1つに自分自身を顧みることも大切だといえます。

今日も骨格屋のブログを最後まで読んで頂きありがとうございました。

もりぞうでした。
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